三笠5:アンモナイトじゃない部分がとにかくこじんまりな三笠市立博物館!
この記事は「三笠4:とにかくアンモナイト!三笠市立博物館!」の続きだよ!
三笠市立博物館は別名「化石の博物館」と呼ばれているらしい。それくらいアンモナイトに関する展示が、全体の8〜9割を締めているのだが、別室で炭鉱や集治監(刑務所)の展示などもあった。
「郷土出身者の足跡」なるブースもあったが、それに関しては割愛。それは三笠市立博物館のサイトを見れば、ぶっちゃけ充分。ただ、私ももっと田舎町で生まれ育っていたら、大学教授やどこかの学長や理事長になったら、わざわざブースを設けて展示してくれたりしたんだろうか。札幌だったら、無理だな・・・。なんだか、損した気分だ。当面、教授や学長になる予定も能力もないが。
炭鉱の展示は、正直、夕張や歌志内と比較しても群を抜いて小規模だった。
けれども、展示が小規模なだけで、ここ三笠は全国屈指の炭鉱町だったのは紛れもない歴史的事実なのだ。
三笠の石炭は日本の近代化を支え、戦後復興期まで我が国の産業を縁の下で支え続けた。
また、石炭の町として栄えた背景には、空知集治監による囚人の使役があった。以前訪問した月形町に樺戸集治監が設置されたのが1881年。空知集治監の設置はその翌年のことだったという。空知集治監は囚人たちを炭鉱に使役させる目的もあったため、道内最大規模を誇ったという。そもそも、この三笠の街の名前も、空知集治監から見える山の景色が奈良の三笠山に似ていることに由来しているのだという。
ただ、ここの展示は小規模なだけでなく、月形樺戸博物館のように開拓に従事した囚人たちへの労いや感謝といったメッセージ性はなく、ただここに集治監があったということを示すものばかりであった。
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なるほど、月形の存在がまことに稀有なものであるということが、ここ三笠に来ることではっきりとわかったような気がした。
凡庸な展示の中で、私の目を引いたのは空知集治監が設置されていた当時の様子を描いた地図だ。
この地図、よく見てみるとなかなか面白い。
三笠の街に入るときに気になっていたのだけれど、岡山から移植した人々がここを切り開いていったのだろうか。北海道には開拓者たちがいた土地の名前が地名として付けられることがよくあることである。
珍スポマニアたちがこぞって三笠に来るのは、この池があるからかもしれない。知る人ぞ知る「ちんこ池」。もちろん、現在も沖縄の「漫湖」に対をなす珍スポットとして全国にその名をとどろかせている・・・が、今回は寄らなかった。また今度、機会があればね。・・・あるのか?
開拓当時は競馬場もあったのか・・・。
そんな様々な驚きの中で、私が最も驚いたのは、こちら。
囚人墓地の横に「良民墓地」。囚人の対義語が良民ということを初めて知った。やはりここには月形のような囚人たちへの心は無い。良民という言葉から、そういった気持ちを読み取ることができるような気がした。
とにかくアンモナイトに全力投球な三笠市立博物館。アンモナイト以外の部分は本当に取ってつけたような、おまけ感がすごかった。
とはいえ、展示の中には、このように昔使われていた電話なども綺麗に・・・。
あ、これ、展示じゃなかったわ。
これはただ、田舎によくある、昔のものが未だに使われているやーつだった。これは失礼・・・。
次回は、三笠市立博物館の野外展示について書いて行くよ!
それでは、ばいちゃ☆(つづく!)