ペリリュー-楽園のゲルニカ-を読んで
先日、ずっと気になっていた「ペリリュー-楽園のゲルニカ-」を買った。
第四巻まで出ているのだが、本屋には三巻までしかなかったので、そこまで買って、一気に読んでしまった。
この作品は、大東亜戦争のペリリュー島の戦いを描いている。
ペリリュー島は日本の委任統治領だった南洋群島(現:パラオ共和国)の南に位置する小さな島である。そして、知る人ぞ知る大東亜戦争の激戦地。大東亜戦争における「三大激戦地」のひとつとも評される島である。
日本の敗色が色濃くなってきた昭和19年。東洋一と称されたペリリュー島の飛行場を巡り、小さな島で日米両軍の精鋭が衝突した。日本にとってペリリューは絶対国防圏の一角であり、さらには本土決戦の準備のためも、死守せねばならぬ拠点であった。また、アメリカにとってもペリリューをフィリピンへ進行するための足掛かりとするために必要な要所であった。
アメリカ軍が「3日で終わる」とタカをくくっていたペリリュー島の戦いは三か月にも及び、日本軍は徹底抗戦の末、玉砕。アメリカの精鋭中の精鋭、第1海兵師団も壊滅した。
このペリリューの戦いはあまりに熾烈な戦闘が繰り広げられたため、その激しさにもかかわらず戦後しばらく長きにわたって、あまり語られることのない戦いであった。
しかし、近年、天皇陛下の訪問を機に国内でドラマが作られたり、またスティーブン・スピルバーグの「ザ・パシフィック」でも描かれるようになってきて、見過ごされてきた歴史への再評価の動きが出始めている。
ただ、このように一般の漫画雑誌に連載という形で描かれるのは、これが初めてのことなんじゃないだろうか。
しかも、ただの戦記漫画ではない。
こんなほのぼのとした絵柄で描かれているというのは、本当に衝撃だった。
私は常々「自分が兵士として戦場に行ったらどうなるんだろう」と考えていた。しかし、どうしてもそれが想像できなかった。なぜならば、私が普段身を置いている日常は幸いなことに至極平和であり、戦場もしくは戦争というのは、言ってしまえば別世界の出来事であった。平和な日常と、非日常の戦争は、どう考えても、頭の中に乖離して存在し、水と油のように混ざり合うことはなかった。
だが、この作品は、水と油の例えで言うのであれば「界面活性剤」のような働きを私の脳にもたらした。
このようにほのぼのとした絵柄で表現される主人公・田丸一等兵はいたって「日常」そのもの。
田丸は上官に怒られながらも任務に従事する、真面目だけれどどこかのんびりとした漫画家志望の青年。戦争というものをどこか遠いものに感じながらも、南洋の自然の美しさに感動したりする。右翼作品に出てくるような敵愾心にあふれた青年でもなく、左翼作品によく出てくる反戦思想を持った青年でもない。そこらへんにいそうな、平平凡凡な一人の青年。
しかし、やはり戦場。そんな彼のところにもじわりじわりと敵は近づいてくる。
どんなに怖い絵柄でも、どんなにグロテスクな映像作品でも、この漫画ほどに戦争を現実的な恐怖として肌で感じることはできないだろう。ほのぼのな絵柄だからこそ、私たちの心にぴたっと寄り添う。寄り添ってくるからこそ、ゆるやかに戦争の追憶を心の中に流し込んでくる。
さっきまで当たり前のようにあった平和な日常が、瞬く間に壊れて、気がつけば死地に立たされている恐怖感。
私は読みながら「私も戦場に行ったらこういう風に戦争に溶け込んでいくんだろうか・・・」と、妙な感覚(ある種求めていた答えのような感覚)に陥る。読んでいる途中で、何度涙がこぼれそうになったろう。お涙頂戴な内容というわけでもないのに。
誰もが、いとも簡単にあっけなく死んでいく。戦場において「美しい死」や「潔い死」というもの等は無いのだ。名誉の戦死も、犬死も、等しく平等に、ありのままで描かれる。
醜く、無惨に・・・。
この作品、今後も目が離せない。
それでは、ばいちゃ☆