俺はタクランケ!(歯学院生の日常)

ハロー、ハロー聞こえますか?
こちら太陽系第三惑星地球・・・。
あなたの世界とちょっとよく似たこっちの世界。
そっちがこっちで、こっちがそっちのパラレルワールド。
平行と交錯、現実と虚構。
ここは、それらの混沌から滴り落ちた、雨粒のようなブログ。
そちらの地球のお天気はいかがですか?

<< September 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

2018.06.12 Tuesday

右には右に、左には左になった理由がある

0

     先日の外山恒一の講演会を聞いて、彼がファシストに転向した理由を知った。

    【関連記事】北大に外山恒一が来た!

     かつて極左活動家だった外山氏であるが、ある事件がきっかけで投獄され、今では左翼を憎むようになりファシストになっているとのことだった。

     急に「私はファシスト!」と言われてしまうと「なんで?!」と思うが、理由を聞いてみると、なるほど、そうなってしまうのも頷けるのだった。

     

     そうか、人それぞれ色んな思想や信条を持っているけれども、それぞれに何かしらのきっかけや理由があるんだろうな、と思った。私にも自分のイデオロギー(とまで言ってしまうと大げさかもしれないけれど)には青年期の葛藤があった。ゲーテの言葉で言えば「疾風怒濤の時期」といったところだろうか。私の内面はまさに疾風怒濤の嵐が吹き荒れていた。

     

     中学生の頃。私にとっては戻りたくない苦悩の日々であった。

     その当時の私は、友達がいなかった。例えば、修学旅行で「好きな友達と班を組んでいいですよ」と先生に言われて、クラスで私だけが余ったことがあるくらいだ(今となってはそんなこと殆どないが、自由にペアを組んでとか言われると、いまだにびくっとなってしまう)。

     

     私は考えた。どうして友達がいないのだろうと。そして、友達をつくるために(というよりも、また仲間外れにならないために)、私は周囲に媚び始める。嫌われないように、嫌われないように。皆に好かれるために、皆の顔色を窺うようになっていく。

     今にして思えば、「自分」を持っている人こそが魅力的だし、媚びる者は嫌われる・・・とまではいかないまでも、信頼を置かれることはないのに。その当時の私は知る由もなかった。自らで友達が出来ない方向に突き進んでいくのだが、悩みで周囲が見えなくなっている私が、そのことに気付くには、もっと悩み苦しむしかなかった。

     気がつけば人の目を気にしてばかり。心なしかクラスメイトからも見下されているような。この頃は毎朝、暗雲たる気持ちであった。悲しくてこんなこと親にも言えない。一人でなんとかこの状況を打開するしかなかったが・・・答えはなかなか出なかった。

     そんな中で、私の言葉に求心力が日増しに無くなっていく。誰も耳を傾けない。信頼をおける友達がいないというのはつらいものだ。「俺っておかしいのかな?」と相談できる人がいないというのはつらい。誰かが「お前はおかしい」と言ってしまえば、その閉鎖された世界では、それがすべてになってしまうのだ。

     

     この頃言われたことや、された仕打ちというのは今でも覚えているし、しっかりと根にもっている。たまに何を思ったのか中学の頃の友達からフェイスブックの友達申請が来ることもあるが、基本的にはブロックして通報している。中学が同じで高校も同じという友人たちは基本的に、私の中では「高校の友達」ということになる。また、あいこりんは小学校時代からの友達という認識だ。中学の友達・・・というと、やはりいないってことになるんだろう。

     ある日、こんなことがあった。

     「お前が喋ると白けるんだよ」と言われ、急に発言回数とスベった回数をカウントし始めたクラスメイトがいた(今でも彼らのことは友達だとは思っていないので「友達」とは決して表記しない)。私はなんだか悲しくなってしまって、発言することをやめた。だが「すべった回数」のカウントがやまない。「どうして?」と聴くと「お前は喋ってなくてもつまらないし、すべるんだよ」と言われた。ネタみたいな話だが、いざされてみると、存在そのものが否定されたような気になって悲しくなった。

     給食の配膳であまりものを詰め込まれたこともある。俺は三角コーナーか。

     

     そんな仕打ちを受けながら、もっと皆に溶け込もうとしていた。ありもしない「普通」というものに、自分を合わせようと思っていた。まず、真面目というイメージを脱ぎ捨てなければいけないと思った(当時は児童会長や学級委員などをやっていたし、漫画のような、まるで丸尾君のような存在で、そのために友達がいないのかと思っていた時期があった)。もっと下品にがさつにならなければいけないと心掛けた。ギターをしなければいけない。髪をセットしなくてはいけない。自分がどう見られているのかということばかりを気にしていた。

     クラスメイトの誰かに「これがおかしい」と言われて、気を付けていると、また別のクラスメイトから、今度はそれを「おかしい」と言われる。あーしてもこーしても誰かに「おかしい」と言われる。全員に良いと思われようと思って気を付けていた私にとっては気が狂いそうになる毎日だった。

     

     ついに父に相談したことがある。

    「お父さんって、人生の軸みたいなものを自分の中に立てたのはいつ?」

     父がなんと答えてくれたかは、どういうわけか憶えていないが、中学生くらいのことはいろいろな葛藤があったということは言ってくれていたような気がする。

     

     周囲からの目だけで自分という存在を型取ろうとしていた私は、疲れ果ててしまった。

     

     ある日私は気が付いた。ここでは教室、もしくは学校での世界がすべてだけれど、それらを超越した絶対的なものがこの世には存在するはずだと。そして、周囲の目ばかり気にしてしまうのも、自分の中に軸(気骨)が無いからなのだと。

     その絶対的な何かを自分の中の軸にすえれば、誰かから「おかしい」と言われても、「おかしいと言っているお前がおかしい」と言い返せるわけで。私は世界中の誰が見ても、これこそが正しいのだと言えるような、言うなれば「正義」を見つけなればいけなかった。その正義は私にとっての軸となり、気骨となり、精神になるはずであった。

     

     正しいものとは何か。

     私は日夜そのことばかりを考えていた。正しさとは、普遍的なものだ。正しいからこそ、そこにあり続けるのだ。その太古の昔から存在し続ける絶対的にして普遍的なもの。それさえあれば。

     

     そして私はある結論に至る。

     それは・・・天皇陛下なのだと。

     三千年の悠久の歴史に君臨し、存在し続けるもの。GHQによる人間宣言があってもその神性は決して否定されない絶対性。神にして皇帝。ローマ法王を超える存在。イギリス王室を超える存在。この世のあるとあらゆるものの上に存在するもの。

     このとき、私は金鵄の輝きにひれ伏すナガスネヒコの軍勢のように、その絶対性に忠誠を一方的に誓ったのだった。

     

     私はその日のうちに、坊主頭にした。もうワックスを付けた髪をいちいちチェックしにトイレに行く必要もない。鏡を見て、周りの目を気にする必要もないのだ。なんだかすっきりした。憑き物が取れた思いだった。

     

     その頃から不思議と友達が増えてきたような気がする。自己というものを、こうした苦悩と葛藤の中で、確立させることが出来たとき、世界がぱーっと明るく見えたのだ。これは比喩ではなく、本当に。

     そういうわけで気がついたら、こういう思想を持つようになったのである。

     

     このとき、私が心の底から普遍的だと思うものが違ったら、もっと違う思想を持っていたかもしれない。けれども、やっぱり、これを覆すほどの普遍的なものは、なかなか地球上には存在しないのではないだろうか。

     

     と言っても、別に天皇陛下に忠誠心を誓わない人に「誓え!」と強要するつもりもないし、それぞれが信じるものに従って一生懸命に生きればよいと思っている。ただ、私は私の信じる絶対的なものをよすがに生きていく。

     逆もまた真なりで、私とまったく違う思想・信条を持っている人には、それはそれで何かしらの事情があるはずなのである。

     

     

     

     今回の外山恒一の講演を聞いて、私自身のそういった話を思い出した。そう思えば、朝まで生テレビも、もっと優しい気持ちで見れるかも・・・?

     

     かくして、そういう軸を、こっそりと自分の中で回しながら、なんとか立っている今日この頃である。

     それでは、ばいちゃ☆

    にほんブログ村 病気ブログ 歯科医へ
    にほんブログ村 


    ▲top