沖縄戦に思いを馳せる・・・嗚呼!(その3:アブチラガマ、バックナー中将之墓)
先週末に行った沖縄戦跡巡りの続きを書いていきたい。
前回まではこちら。
【関連記事】沖縄戦に思いを馳せる・・・嗚呼!(その2:沖縄陸軍病院 南風原壕群20号)
ここでガマ体験をした私は、さらに追体験を深めるべく、今度はアブチラガマへ向かった。
アブチラガマとは何か。パンフレットの冒頭を引用して説明したい。
アブチラガマは、沖縄本島南部の南城市玉城字糸数にある全長270メートルの自然洞窟(ガマ)です。
沖縄戦時、この自然の洞窟は糸数住民の避難指定場所や、日本軍の地下陣地・倉庫としても使用され、戦場が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となりました。
アブは深い縦の洞窟。チラは崖。ガマは洞窟のことを言うらしい。
ここも予約制だったが、お願いしたらなんとかいけた。
入壕料、ガイド料、ヘルメット・懐中電灯のレンタルが全てついて1200円だった。
私たちの前に修学旅行の団体がいて、それを待ってからの入壕となった。
受付のあるセンターには遺品がたくさん展示されていた。
これらは米兵が戦利品として持ち帰ったものを返してもらったのだという。
色々面白くて、見ている間に時間となり、ガイドの方がやってきた。
ガイドの方から最初に沖縄戦の概略などの話があり、知識の無い方でも大丈夫な構成になっていた。
全長270メートルの壕を実際に入ることが出来るのだから、すごい。ただ、壕内は撮影禁止だった。
ガイドの方に連れられながら入壕。足場は悪く、中は真っ暗。
この壕は広くて、中から水も沸いているので、なんとか助かった命もあったのだとか。そういった方の体験談はホームページなどから拝見することができる。もちろん私は予習済みでアブチラガマに挑んでいた。
南風原の沖縄陸軍病院壕の記事でも書いたが、この空気感は実際に来てみないとわからないものがある。来てもわからない部分もあるのに、来なかったらもっとわからない。
アブチラガマの最深部には再起不能と判断された負傷兵が次々と送り込まれていたのだという。治療はもちろん、食料や水も与えられることなく、ただただ死ぬのを待つ場所として。
ガイドの方が懐中電灯を消してみてくださいと言った。私たちは忽ち暗闇の中に放り出された。自分が存在しているのかどうかすら疑わしくなるほどの暗闇。
沖縄戦における県外出身者の戦死者では北海道が最も多いということは、このブログでも頻繁に取り上げている。
ガイドさん曰く、アブチラガマにも北海道出身者の方がいたとのこと。おひとり、生還した方がいるらしい。
しかし、北海道から行先も聞かされずに沖縄に来て、何もかも郷里と違う場所で、それだけならまだしも、負傷して最後は再起不能と判断されれば、この暗闇の奥底に捨て置かれる・・・。その無念。言葉にできない絶望。その兵士らの胸中や如何に。そう思うと、ぐっと目頭に熱いものがこみあげてきた。
ここは人生を終える場としては、あまりにも暗く、悲しい。
壕の中腹には井戸があり、空気抗もあった。そこは、水もある。空気抗からは太陽の光が注がれ、それに希望を見出して生還した方もいたとのこと。そういった地獄のような体験談ですらも、救いのある話に思えてしまうほど、深い絶望がこの壕にはあるような感じがした。
「もっと高性能の懐中電灯があったんだが・・・」と終始残念そうにしているトンヌ先輩のお陰で、なんとか絶望に飲み込まれずに壕を出ることが出来た。
出口のほど近くにある慰霊碑に手を合わせた。
帰りに、私の強い希望でもう一か所。バックナー中将のお墓を見てみたいと、さらにトンヌ先輩に車を走らせてもらった。
なにもないところに、ひっそりとたたずんでいた。
バックナー中将は沖縄戦の最高指揮官。アメリカの歴史上、敵軍の攻撃によって戦死した者の中で最高位。
敵の大将を討ち取った場所を見ておきたかった。
前線の視察中、我が方の狙撃によってこの地で戦死したらしい。バックナーの戦死によって、米軍による民間人への無差別虐殺が発生したことは、この記事を書くために調べていて初めて知った。
ちなみに、遺骨はここではない。それは彼の故郷ケンタッキー州にあるとのことだ。
この日はトンヌ先輩と、近くのA&Wへ行くことにした。ネイティブは「エンダー」というらしい。
この流れでALL AMERICAN FOODというのは、矛盾しているようだが、決してそんなことはない。
かつての敵。今では味方とはいえ、やはり敵のような。大きくて邪魔なくせに、無視はできずに、魅力もある存在、それがアメリカ。そういう意味でも、この日の夕飯はまったくもってアメリカの味であった。
かくして今回の沖縄戦跡巡りは終了!
私の我儘を聴いてくださり、行きたい場所へ全て連れて行ってくださったトンヌ先輩!
本当にありがとうございました!
それでは、ばいちゃ☆